碓氷峠 熊野神社 県境鎮座(長野県・群馬県)

 
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御由緒・御祭神

 

 御祭神

 

 

 

 

↑新宮殿

新宮殿 速玉男命 (はやたまのおのみこと)     「心の健康の守護神」

本宮殿 伊邪那美命(いざなみのみこと)        「諸神の産みの神・祖先神」

    日本武尊 (やまとたけるのみこと)      「当神社の創設者」

那智殿 事解男命 (ことさかのおのみこと)      「人生の難題解決の神」

 

 

 御由緒

 

 

 

↖烏午王札(からすごおうふだ)

 神社の縁起によれば、景行天皇40年(西暦110年)大和朝廷の命を受けた日本武尊は東国を平定し、武蔵国、上野国を経て碓氷坂に差し掛かった。折りしも濃霧により道に迷われてしまったが、その時紀国熊野山の神使霊鳥である一羽の大きな「八咫烏」が現れ、梛(なぎ)の葉を咥え来て尊の御前に落としながら道案内をした。そして尊は無事頂上に達することができた。尊はこれはまさに熊野の神のご加護とここに熊野の神を勧請したのが始まり。

 碓氷峠に立って自分が登って来た方角を振り返って見れば、そこには棚引く雲海が見られ、武尊はそれより海を連想され、東征の途中に相模灘で入水された弟橘姫(おとたちばなひめ)を偲ばれ、辰巳の方角(=東南の方角のことで関東平野が一望できる)に向かって「吾嬬者耶(あづまはや)」(=「愛しき我が妻よ」の意味)と3度嘆かれたという。

 以後ここより東の国を吾妻(あづま)と呼ぶこととなった。(日本書紀の記述による)

 これらの御由緒より、それに因んだ地名が残っている。例えば、神社の裏山の頂上を留夫山(とめぶやま)(=武尊の足を留めさせた場所の由緒から付いた名前)。あるいは、長野原(ながのはら)や長倉(ながくら)は、嘆きある原が語源と伝わっている。

 


 

県境に神社が建つ「いわれ」・その意義

当社は群馬県と長野県の県境(江戸時代は上州と信州の国境)に鎮座しています。ここではそのいわれと意義についてご案内致します。

 

 実は、県境に建っている「いわれ」や「意義」は明確には分からないのが現状です。しかし遡って、当時の時代背景を想像し、時代ロマンに思いを馳せてみましょう。

 さて、元々山は山の幸を戴き、豊かな水を戴く生命の根源の聖地であり、従って神様の住む場所として昔より崇められて来たことは、碓氷峠に限ったことではありません。

 さらに、明確な地図を持たない昔は、峠を制することはその先の地域を制する為に欠かせぬ要素だった分けです。つまり峠は軍事的な要所だった分けです。ましてそこに日本武尊(大和朝廷の東征の使者)が勧請した神が祀られているとなれば、両国ともに手中に収め、その神徳を戴きたいと思うのはごく当然であったとも思われます。

そんな分けで、戦国時代には国境が激変し、武田信玄は広大な社領を神社に寄進したと伝えられてその地名(=鳥居坂から、鳥居原まで)も残っております。

その後、江戸時代の初めに中仙道の整備と共にお宮の真中を改めて上州と信州の国境にしたのだろうと言われています。江戸時代の途中で国境が変更されたとは伝わっておりませんので、それがそのまま明治時代に廃藩置県により現在の県境となった分けです。

私共神職は上州でも信州でも共に「峠山(とうげさん)」と呼ばれ、人間社会のルールの為に2法人となっていますが、信仰上に境が在るわけではなく、「二世安楽」を叶える峠の権現様として里人の信仰を集めています。それで春秋の例大祭では現在でも両県の神職が一緒に御奉仕を致します。

 尚、江戸時代上期の全盛期には信州および関東に10万戸の崇敬者を持ったと伝えられています。お宮から戴いた烏午王札(先に掲載)を峠の御師(おし)が自分の担当する○○の国○○村に出掛けて行き、熊野の信仰を説きながら配りました。御師一人平均千軒の崇敬者を持っていたそうです。御師は100人ほど居たそうです。年に3回御神札を配った御師も居たそうです。この御神札の初穂料の半金が神社に奉納され、半金は御師の糧と成りました。この頃に神社社殿の改修等が良く行われています。

 ところが、天明3年に起きた浅間山の大噴火により、碓氷峠には5尺5寸の灰が積もります。この大噴火は地球の気象を変える程の物でしたが、殊に御師が出かけて行く関東は飢饉に何年も見舞われ、御師は御初穂を戴けづ、困窮し、止める者も続出、神社の営繕の為の蓄財も無くなって行きます。それでも江戸時代の終わりに40人ほどの御師が残っていました。現在も上州信州の近隣の村へは神職が御師に代わってこの御神札を頒布しております。

 さて、話が横道に逸れましたが、今でも上州と信州では、宵越しの金を持たない上州人に対し、がっちり賢く貯め込みタイプの信州人とそのお国柄(県民性)も異なりますが、「共に相手を認め合って仲良くやっていきましょう」という平和の象徴的存在として神社が県境となっていると考えれば、肯ける気も致します。

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